読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

まくらの日記

計画性ゼロの女が思ったことを書いていく

言葉と暴力、差別

言葉の暴力って、「死ね」とか「バカ」とか、あるいは色々な差別表現とか、単語が問題になることが多い。でも、その暴力性において重要なのは、単語自体ではない。
 
いつも部下に抑圧的な上司から、「バカ!」と大声で、他の人たちも見ている前で言われるのと、親しい友人から「バカだな~」と冗談めかして言われるのと、同じ単語でも受け取り方は全然違う。
 
文脈・文意、シチュエーション、どんな言い方か、言った方と言われた方(個人ではなく人間集団の場合もある)の関係性・力関係。
こういったことが言葉の暴力性に関係している。
 
文脈・文意によっては、関係性によっては、まったくソフトな言葉しか使っていなくても、人をひどく傷つけることもある。
 
力を持っている人、影響力を持っている人の言葉は重い。
一般人の失言は問題にならなくても、閣僚の失言が問題になるのはそのせい。
 
差別表現が問題になるのは、それがマジョリティからマイノリティに向けられた言葉だから。
(ここでのマジョリティとは、単に大きい集団ということではなく、社会でより力を持っている集団ということ)
 
よく勘違いしている人がいる。
マジョリティの立場からマイノリティに向けて侮蔑的な言葉をいろいろ言っているのに、いざ自分が批判され、侮蔑的な言葉もかけられると、自分は傷ついた、差別だ、人権侵害だとか言い出す。
たとえば、「ネトウヨ」は侮蔑的な言葉だから、その言葉を使うのは自分たちに対するヘイトスピーチであると言う。
 
マジョリティの立場にいる人が侮蔑的な言葉をかけられて傷付くことの何倍も、マイノリティの立場にいる人は侮蔑的な言葉をかけられたときに傷ついている。
それは、マイノリティがマジョリティに対して弱い立場にいるからだ。
 
マジョリティに対する侮蔑的な言葉が特に禁止されないのに、マイノリティに対する侮蔑的な言葉は使わないようにとされる(ヘイトスピーチ規制など)のは、社会においてそれだけの力の差があるから。
その扱いの差は差別ではない。
もともとある力の非対称性を、公的な規則・規範をつくることによって改善・解消しようとしているのだ。
 
これは労働法の考えに近いと思う。
現実として、労働者と使用者には大きな力の差がある。
そのため、労働法は労働者に権利を与える一方で、使用者の権利を部分的に制限している。
たとえば、労働者は会社が同意するかに関係なく自由に離職できる(辞職)けれど、会社が一方的に労働者を辞めさせること(解雇)には制限がある。
過酷な働かせ方をする会社を辞められなければ過労死するし、仕事を失うと生活できなくなってしまう。
労働法は労働者の「生存」に必要な権利であって、「特権」ではない。
 
ヘイトスピーチ規制もマイノリティの「生存」に必要な規範である。
たしかにこれは表現の自由とぶつかるが、いまの日本社会でマイノリティに対する差別的言動を許していては、マイノリティの生存が脅かされてしまう。
百田尚樹の「国内の敵を潰す」というツイート、相模原の障がい者殺傷事件…
表現の自由と生存の権利がぶつかったとき、守るべきは生存のほうではないだろうか?